教えのやさしい解説

大白法 438号
 
相待妙・絶待妙(そうたいみょう・ぜったいみょう)
 相待妙・絶待妙とは、天台大師が『法華玄義』に、
 「二に妙を明かさば、一には通釈(つうしゃく)、二に別釈なり。通に又二と為(な)す。一には相待、二には絶待なり」
と説いているように、妙法蓮華経の「妙」の一字を通釈するために立てた教判です。
 相待妙とは、爾前諸経(にぜんしょきょう)と法華経とを比較相対(ひかくそうたい)し、爾前を麁法(不完全・粗悪などの意)・方便と破し、法華経を妙法・真実と判釈(はんじゃく)することをいいます。つまり、法華経は、法界の全体を円(まど)かに説いた仏の随自意(ずいじい)の正法であるのに対し、爾前諸経は、衆生の機根に応じ、法界を部分的に説いた随他意の教法に過ぎないとするのです。ゆえに、勝れた法華経を選択(せんたく)し、劣った爾前諸経を悉(ことごと)く捨てなければならないのです。
 次に絶待妙とは、麁(そ)に対して妙というのではなく、麁妙の相待を絶した(対すべきものがない)絶待の妙法の上から、麁法をそのまま妙法と開会(かいえ)することをいいます。つまり、爾前諸経は、ことごとく法華経より生じた一部分の教法であって、全体である法華経の体内(たいない)に帰入(きにゅう)することにより、はじめてその価値的な意義が生ずるのです。したがって、法華経が顕わされた以上は、一切が法華経であり、かえって法華経のほかに、別個に爾前諸経が存するというようなものではありません。
 これらの二妙について、日蓮大聖人は『一代聖教大意』に、
 「相待妙の意は、前四時(ぜんしじ)の一代聖教に法華経を対して爾前と之を嫌ひ、爾前をば当分と云ひ法華を跨節(かせつ)と申す。絶待妙の意は、一代聖教は即ち法華経なりと開会す」 (平成新編御書 九八)
と、天台の相待妙・絶待妙の意によって、法華経を最勝の教法と立てられました。しかしこれは、いまだ天台の助言であり、付嘱の妙法の深意(じんい)についての御指南ではありません。
 大聖人は『百六箇抄』に、
 「日蓮は脱の二妙を迹(しゃく)と為し、種の二妙を本(ほん)と定む。然して相待は迹、絶待は本なり」(平成新編御書 一七〇〇)
と、「脱の二妙」を文上脱益の法華経における相待・絶待の二妙として迹とし、「種の二妙」を下種の妙法における相待・絶待の二妙として本とされました。しかして、下種の二妙の中にも相待妙を迹とし、絶待妙を本とすると御指南されています。下種の相待妙は迹であり、下種絶待妙の法体をもって、仏法の至極の当体としなければならないということです。
 つまり、大聖人が末法の衆生を救済されんとして示された二妙のうち、相待妙とは『開目抄』に説かれる五重相対(ごじゅうそうたい)等の法門です。これによって一切が取捨選択(しゅしゃせんたく)され、最後、種脱相対に至って文底下種の仏法が顕われるのです。
 また絶待妙とは、種脱相対することによって顕わされた人即法(にんそくほう)、法即人、人法一箇の妙法大漫荼羅御本尊であり、三大秘法総在(そうざい)の本門戒壇の大御本尊として建立されたのです。この御本尊こそ、あらゆる教えや功徳を具(そな)えた仏法一切の根源の当体であり、久遠の本仏大聖人の一身に具わる絶待妙の法体なのです。
 私たち末法の一切衆生は、いかなる境遇にあろうとも、絶待妙の大御本尊を信じ奉って題目を唱えるならば、悉く成仏の功徳を得て、幸福な人生を送ることができるのです。